少し前のことですが、インドの仏教四大聖地を巡礼してきました。四大聖地とは、仏教の開祖であるお釈迦さま(本名をゴータマ・シッダールタといいます)の人生においてとくに重要な場所をいいます。
お釈迦さまは、今から2400年も前の方です。したがって、記録として確実なものはほぼ残っておりません。しかし、お釈迦様の伝記の記してあるお経やそれをたよりにした発掘調査などから、お釈迦さまの生涯はおおよそ明らかにされております。その人生の中で、転機となる出来事は、4つないし8つあるとされています。そのときにいらっしゃった場所が聖地とされ、いまも巡礼の目的地となっています。今回はそのなかでも四つの場所をご紹介しながら、お釈迦さまの人生を振り返ってみましょう。
- 生誕の地・ルンビニー
ネパールとインドとの国境から車で一時間ほどの田園地帯に佇む小さな村・ルンビニーがお釈迦さまの生誕の地であるとされます。ここには現在、マーヤー堂とアショーカ王が巡礼したときに建立された石柱、釈迦が産湯をつかったという池などが残っています。世界中から集まる巡礼者で賑わっているこの場所は、1997年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
〈マーヤー堂〉
〈アショーカ王の石柱〉
- お釈迦さまの誕生
お釈迦さまは、母親のマーヤー(摩耶)夫人が、実家へ里帰り出産に向かう途中で、ルンビニーの花園で休んでいた時にお産まれになりました。夫人の右脇の下より姿をあらわし、すぐに七歩歩いて右手で天空を指し、左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と述べたという伝説は日本でもよく知られております。おおよそこの伝説はいまでは信じがたい出来事ですので、いろいろな解説がされます。例えば、スリランカ仏教の長老スマナサーラ師は「小さな赤子のお釈迦さまにこのような超人的な出来事があったり、ことばを語らせるということによって、覚りをひらく前から人間として桁違いの能力を持っていたお釈迦さまの姿を伝えるものである」(『ブッダの聖地』サンガ文庫)、としています。これはなかなか現実的な解釈ですが、いずれにしろお釈迦さまというこの一人の人間の誕生は、人類の歴史にとてつもない影響を残したことは言うまでもありません。
お釈迦さまの生誕年についても諸説ありますが、おおよそ紀元前5,6世紀頃であるといわれています。一説では紀元前463-383が在世年とされます。インドは歴史のない国といわれるように、ほかの有名なヒンドゥーの聖者であっても年代はほとんどわかりません。唯一、お釈迦さまだけがここまで詳しく解明されています。
- アショーカ王の石柱
アショーカ王(紀元前268-232年頃)は、インド亜大陸をほぼ統一した大様です。お釈迦さまが亡くなられてからおよそ100年後に現れました。アショーカ王は、インド各地に石柱を建立し、仏教の興隆に大きな影響をあたえました。この石碑にはブラーフミー文字にて 次のように記してあります。「アショーカ王が即位 20 年の後、自ら来て礼拝する。こ こはブッダ(お釈迦さま)が生まれた場所であるから、石の馬の像を作らせ石の柱を建てさせた。 ここはブッダの誕生した地であるので、地租を免じ、八分の一税のみを課す」。アショーカ王のお釈迦さまに対する篤い信仰がこの碑文からもみてとれます。
中国唐代の三蔵法師、玄奘(602-664年)は、インドへ留学に行った際に、この石柱をみていて、「石柱が雷によって折れて地に倒れている」と記録を残しています。たしかに現存の石柱は、頭部は折損していて、落雷の跡がみられます。
1896年、ドイツの考古学者ヒューラーが、インド政府の命を受けこの地を調査しました。ここで発掘された石柱が、 三蔵法師の玄奘の記録と一致し(雷による欠損があった)、お釈迦さま の実在が考古学上からも確認されました。
〈ブラーフミー文字による碑文〉
- 荒廃したルンビニー
マーヤー堂とこの付近の聖地は、十三世紀にイスラム王朝の支配され荒廃してしまいました。マーヤー堂の内部にはマーヤー夫人と従者の像が安置されていますが、表面を削り取られています。イスラムによる支配後、この地は、長い間ジャングルに覆われ、 忘れ去られていました。19世紀の発見後、ルンビニーの境内は整備され、世界遺産に登録されるまでになりました。今では、世界各国からの参拝者で賑わっていて、各々のスタイルでお釈迦さまに祈りを捧げています。