境内案内

本堂

 昭和四十九年に再建。間口七間・奧行九間の木造入母屋瓦葺きで、奧には檀徒の位牌堂が配されている。本尊は、薬師瑠璃光如来。信濃神光寺の本尊であったが明治初年に当院へ遷座される。木彫・本金箔座像(身丈二尺六寸)。造立年代、作者不詳。脇士の日光・月光菩薩は、平成六年に当院篤信者からの寄進。木彫・尾州桧立像(身丈二尺)。作者・宇津野善晃師。そのほか、享保年に造立された不動明王、あらたに平成二十三年に寄進された不動明王も安置されている。

観音堂

 平成十二年に建立。明治の法難で廃寺となった信濃神光寺の歴代住職の追善菩提の為に、篤志者の協力を得て再建。本尊は、千手観世音菩薩。佐久三十三番観音霊場の十九番札所。

海尻城

 東に千曲川(信濃川)、北に大月川、南は釜前と呼ばれる湿地帯で囲まれた天然の城である。山頂には、性海上人によって勧請された愛宕権現が祀られている。この地域は、古くから火災が多く、それらの厄災を払うために上人が建立したと伝えられている。

 武田信玄初陣の地として広く知られているのは海ノ口城であるが、これを地理的な条件などから鑑みて信玄初陣の地は海尻城ではないかとする説もある。

 武田信玄初陣を海ノ口城とする記録によれば、「天文五(1536)年の年末、佐久平賀城主・平賀源心らの立て籠もる海ノ口城を攻めた。一ヶ月間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥落せず、冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。城内の兵たちは武田軍が引き上げたことに安心し、新年の祝宴に併せて餅をつき、酒を飲んでいた。そういった中で、信虎の嫡男、晴信(のちの信玄)は、敵兵の油断につけ込み、兵三百を率いて海ノ口城に奇襲をかけ、忽ち城を落とした。武田信玄、初陣での功績である」とされる。

 ところが、これらの資料は広く流布し人々に読まれてきたものの、史料的評価が定まっておらず信憑性に疑問が残る。また、地理的観点からも海ノ口城は街道沿いから離れ過ぎており、武田軍の宿営地として想定するにもかなり狭い。したがって、海ノ口城は海尻城の誤りである、或いは海ノ口城は海尻城の砦であり、武田軍の佐久地方攻略の拠点として置かれたのは海尻城ではないかとの指摘がされる。いずれにしろこの点は未だ明らかにされているとは言い難い。

 尚、現在でも海尻地区の住民らは、正月には門松を家の中で飾り、また正月三ヶ日は簡単に食事を済ますことのできるうどんを食す。これは信玄の奇襲から「いついかなる時においても油断すべきではない」という今日まで伝え継がれている戒めとされている。

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