どういう訳か、最近、インド関係のアクセスが多いようです。すっかりと第4弾目の記事を掲載することを忘れておりましたが、仏教四大聖地の最後の記事を載せたいと思います。
クシナガラの大涅槃堂【写真上】には、お釈迦さまの涅槃像【写真下】が安置されている。六㍍ほどの大きさである。金箔を貼って供養するという信仰がみられる。涅槃堂から東2㎞には、お釈迦さまの遺体を荼毘(火葬)に付した遺跡がある。での初めての説法から四十五年、お釈迦さまの生涯はいよいよ最後を迎えようとしていた。
《最後の旅》
お釈迦さまが、自身の死(涅槃と言います)を直感されたのは、涅槃の三ヶ月前のことでありました。生まれ故郷であるカピラヴァストゥを目指し、最後の遊行に出発しました。最後はやはり自分の故郷に戻りたいということだったのでしょうか。
お釈迦さまの最後の三ヶ月の様子を詳細に記した『涅槃経』と呼ばれるお経があります。この内容は、いまや確かめようはありませんが、種々の観点から見て、学者の方々は史実に違いものであろうと推定しております。
お釈迦さまの旅は、それまでもそうであったように、旅先で人々に法をお説きになりながらのものでありました。しかし、80歳という高齢であったためこの頃には、遊行中にたびたび体調を崩すことがあったといいます。
【写真上】インド中部地方
《最後の供養》
クシナガラの近くでチュンダという鍛冶屋に食事の供養を受けたところ、突然激しい腹痛に見舞われました。この食事はキノコであったという説と、豚肉であったという説があります。
お釈迦さまはその時、体調を崩したけれども、それはチュンダの責任ではないこと、覚りひらくの前の供養(スジャータによるミルク粥)と共にこのチュンダの供養には特別な意味があることを説かれ、チュンダを思いやりました。お釈迦さまは、激しい苦痛の中、一刻も早くクシナガラに到着する事を望み、残り20㎞の道を急いだのです。
【写真上】サーンチのストゥーパ
《臨終に際して》
クシナガラに到着した後、お釈迦さまは、弟子のアーナンダに「二本の沙羅の木の間に頭を北にして床を敷いてほしい。私は疲れた、横になりたい」と告げました。そこで、アーナンダは直ちに床を作りお釈迦さまを休ませました。それまでお釈迦さまのそばにいつもいたアーナンダは、ついにわが師がお亡くなりになると思い、住居に入って、泣いていたといいます。これを聞いたお釈迦さまはアーナンダを呼んで、静かに語りました。
―泣くのをやめよ、アーナンダよ。悲しむのではない。わたしは、あらかじめ説いたではないか、すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れるということを(愛別離苦)。
―あらゆるものは、生じ、存在し、つくられ、消えていくものであるのに、それが消えゆかないということが、どうしてありえようか(諸行無常)。
―アーナンダよ。長い間、お前は、わたしに仕えてくれた。アーナンダよ、つとめ、励んで、修行しなさい。―
その後、お釈迦さまの死期が近いことを聞きつけて集まってきた修行者に、お釈迦さまは告げました。
―弟子たちよ、限りある時間を大切にして修行に励め、教えをよりどころにしなさい。
このように諭し、安らかに最後を迎えられました。そして、これがお釈迦さまの最後の言葉であったといいます。
その時、時ならぬ沙羅の大輪が咲いたと伝えられております。お釈迦さま八十歳の時でありました。
【写真上】いまも見かける蛇使い